Netflixでたまたま目に止まった『哭声/コクソン』ですが、結構面白いですね。
説明的シーンを切り取ることで解釈の余地を残すタイプの映画だと思います。
コクソンは韓国の映画なんですが、國村隼さんが出ているという話題作にもなっています。
また見てない方は、この記事を見る前に是非ネットフリックスで見てください!
目次
『哭声/コクソン』を見た感想
映画のストーリーのテンポがよく、特に祈祷のシーンなんか盛り上がってドキドキしましたね。
今回のテーマは宗教と科学をベースとした「信頼できるものは何?」
という内容になっているように思えます。
そしてその軸が父親の娘に対する愛情とうものを軸に繰り広げられています。
見終わった後、、、「どゆことやーーー!!」
ってなる映画です笑
そして、各シーンを思い返して考えてみると、あーこんな解釈できるなぁぁと
見終わったとも、考えさせられる2度面白い作品でした。
そして何より、國村隼さんの怪演ぶりがすごいです。
やっぱり日本人で一番好きな役者は國村隼説はありますね。
今度ブログにまとめようかな。
考察に関するネタ
國村隼がキャスティングされた理由
日本人の國村がキャスティングされた理由は、
イエス・キリストを「歴史上最も世界に混乱を与え、疑念を持たれた人物の一人」と評した哭声の監督の、「同じアジア人ではあるものの韓国人とは違う“よそ者“が必要だった」という理由からだそうです。
そして、なぜ日本人だったのか?という疑問がありますが、
実は今回のキャスティングは監督がアジアの俳優図鑑を見ていてこれだ!
と顔を見ただけで決めたみたいです笑
(國村隼さんすごすぎw)
監督の宗教観
イエス・キリストを「歴史上最も世界に混乱を与え、疑念を持たれた人物の一人」と評したと言われているのは非常に興味深いところがありますね。
キリストに対してい肯定的なのか否定的なのかの観点は置いておいて、
- 混乱を与えた
- 疑念を持たれた
という2つのポイントは重要だと思います。
冒頭の
人々は恐れおののき霊を見ていると思った
そこでイエスは言った。
なぜ心に疑いを持つのか
私の手や足を見よ、まさに私だ
触れてみよ このとおり肉も骨もある
という聖書を引用していることからも宗教的なものの見方をテーマにしていることがわかりますね。
監督のコメントから分かる映画のテーマ
監督はこの映画を
「(一つの事件の)被害者がどんな原因によってなぜそのような事件に巻き込まれることになったのかについて書いてみたいと思ったのです。彼らがなぜそんな悲惨な経験をしなければならないのかについて、色々と考えさせられる映画を作りたかった。」
と発言したみたいです。
あらすじはまさにこのようになっていますね。
そして平和な村に起きる異常な事態を監督のフィルターをとうして描かれた作品がコクソンということになります。
そこには宗教、科学、愛、偏見、疑念、信頼など様々な要素が重なって、
平和な歯車が狂いだす様子が描かれています。
ただのホラーではないところが面白さと深みを増している部分だと思います。
『哭声/コクソン』の考察
登場人物から見るテーマ性
登場人物を構造化してみると
- 父親
- 娘
- キリスト教
- 祈祷師
- 日本人
- 謎の女
- きのこ
これらの要素が浮かび上がってきます。
それぞれどういう意味合いを持っているのかを考察しますと。
父親と娘からは家族の「絆」「無償の愛」
キリスト教、祈祷師からは宗教的な「異常性」そして「救済」
日本人からは異質なものへの「偏見」「疑念」
謎の女は日本人と似ている構造になってます。
きのこからは「科学」
これらのテーマが合わさって物語が進んでいるのはないでしょうか。
本当に信用できるものは科学であると言われる現代ですが、異質への偏見や疑念に対して最終的に信頼するものは宗教なのかもしれません。
しかし、その救済の対象である宗教も異質なものであり、より疑念を膨らますだけ。
最後に信用できるものは家族の絆であり、父が子供を思う気持ち。
というテーマ性が垣間見れます。
キリスト教と宗教観
この映画は冒頭が聖書の引用から始まっています。
そして、監督のコメントから
「歴史上最も世界に混乱を与え、疑念を持たれた人物の一人」
とキリスト教を評価していることもわかります。
映画の中では、異常性に対する救済として祈祷という手法を取り入れたり、國村隼さんが僧侶であると思わせる発言もありました。
そのなかで、キリスト教の牧師とその助手?の人がいます。
そしてキリスト教の牧師のシーンが印象的なのですが、
唯一このおっさん「なんの助けにもなってないんです笑」
なんかそれらしいこと言ってますけど、最終的には「私にできることはないので」的なスタンスでした。
しかもそれだけではなく「國村隼さんが実は大学教授で僧侶で、、、」という噂レベルの話をすることで主人公を混乱させます。
一方で真実なのかもしれません。
しかし、惑わしているというのも事実です。
宗教は本来は救いを差し伸べるべきですが、実態は惑わしているだけなのかもしれないですね。とうメッセージなのかもしれませんね。
ここで冒頭の
人々は恐れおののき霊を見ていると思った
そこでイエスは言った。
なぜ心に疑いを持つのか
私の手や足を見よ、まさに私だ
触れてみよ このとおり肉も骨もある
この引用が生きてきます。
肉や骨があっても幽霊の可能性はありますよ!
むしろ肉や骨がある方が、、、、ね
さらに、牧師の弟子の名前が「23」という変な名前なのも気になりますよね。
これは推測ですが、キリストには詩篇23篇というものがあります。
キリスト教にとったらとても有名な詩篇のようです。
ダビデの賛歌
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう
詩篇23篇
キリストを信じている弟子、しかし最後には國村隼さんの姿をした悪魔に惑わされています。
これは盲目的に眼の前のことを考えずに判断してしまっている「人」の象徴なのかもしれません。
祈祷師vs國村隼vs女vs◯
最終的にはこの構図になるのですが
結局、だれが正義で誰が悪魔なのかわかりにくい終わり方になっています。
しかし、逆に考えていくと、國村隼さんは最後に明らかに悪魔の姿になっていました。
そして、祈祷師は國村隼さんと同じようにカメラを持っており、さらに國村隼さんの家にあった写真を所持していました。
つまり、2人はグルで合った可能性が高いです。
そして、その真実を告げたのは「女」です。
そして女は幽霊で何か特殊な力を持っている。
最後に女は主人公を助けようとしたけど、信用してもらえずに結果、全員が死んでしまった。という見方が一番ストレートな見方だと思います。
ただ映画自体に断言的に描いていないのでなんとも言えないです。
ですがYouTubeで面白い映像を見つけました。
最終的にはカットされたものらしいのですが、
そして韓国語わからないので推測でしかないですが、
なんとなく、話の元筋は先程の説明のような気もしますよね。
そして、いろんな考察が出てますが、最後は実は
毒キノコの幻覚説というのもありますね。
毒キノコの幻覚説
この映画で唯一科学的根拠があるものが、犯罪を犯した人から毒キノコの成分が検出されたというものがありました。
そして、ニュースでも毒キノコが原因でという報道がされてます。
ですので、もしかしたらこの辺境の地で起きているものはすべて「毒キノコ」による作用なのかもしれません。
そして、科学の理解を超えた人たちが向かう先が宗教なのだ、というメッセージを残しているのかもしれませんね。